『研究的態度の養成』

私は寺田寅彦の書く随筆が大変好きだ。彼の様に、思考の翼でもって宇宙の森羅万象を不思議混沌の中を縦横無尽に自由に飛び回り、且つそれを私のような人間にも追随できる平易な日本語でもって表現する能力に恵まれた人は珍しい様に思う。私は彼のことを、我が国におけるサイエンスコミュニケーションの父祖的存在だと勝手に思っている。

 

寺田寅彦 研究的態度の養成

 

今週は後半から体調がすぐれず、金曜日などは毎週欠かしていなかったパブめぐりも休んで一日床に臥せっていたのだが、土曜日になって少し快復したと見えた。気晴らしにとコバーグ通りまで歩いて喫茶店で過ごしていると、何もしないで居るのも手持ち無沙汰なので上記の随筆など読んでいた。

 

ただ一口ですべての現象を説明し得るというような感じを起させるのはよくない」

科学は絶対のものでない、なおいくらも研究の余地はある、諸子の研究を待っているという風にしたいと思うのである」

 

このことは私自身の体験から言っても、非常に大切なことだと思われる。2008年に駒場教養学部の二年生であったとき、夏には進路を決めなければならないというので主に産・官のどちらかで悩んでいたのだが、そんな時に「動物科学」を担当されていた道上達男先生の講義を聴講していた。珍しい名前だったし、単位まで取ったのだが結局最後まで名字をなんと読んだらいいのかが解らずじまいだったので印象に残っている。

確か道上先生はちょうどその年の春から駒場に着任されて、新進気鋭の若手教員という感じは何となく伝わってきていた。駒場の二年生になると、私のように大学受験で生物を受験科目にしなかった学生でも、一年生の時に「生命科学」を履修しなければならないから、通り一遍の細胞生物学・分子生物学的な基礎は身に付いている。私は「動物科学」というからてっきりサイの角の地域的差異のような類いの内容を講義されるのかと思っていたのが(いま考えればそれはZoologyだ)、そうではなく分子生物学・細胞生物学の実験手法について色々と講義をしてもらったのを記憶している。日本だけに限った話ではないかも知れないが、どうも高校〜大学学部前期課程までの科学教育においては法則の理論的記述や四則演算をくまなく学ぶ機会は多いのだが、実際にそれをどういう方法で計測・検出するのかという実感が伴わないのである。それで、道上先生の講義はとても面白かった。細胞内小器官(オルガネラ)の分画、はこういう試薬を使ってこれくらいの速度で遠心してこうしてこうやる・・・etc (つまり密度勾配遠心)といったことを色々講義して下さった。それで、何かの時に抗体作成の話になって、抗体がどういう仕組みで遺伝的にコードされていて、多様性がもたられるかという講義の回があった。ざっくりいてVDJ組み替えの話だが、私はその時先生に「抗体の二つのFab領域は常に相同なのか」という趣旨の質問をして、先生は「どうなんだろ」をお答えになった。この経験は私の人生にとって決定的な瞬間だった。教科書の先に一歩踏み出すと、もう教官でも即決は出来ないような世界が広がっているということを初めて知ったのがこの時だったからだ。あの時は今振り返っても、正直シビれた。

この経験がきっかけになって私は研究の道に進むことを考えて、今に至っている。

 

ただし、一見して新しそうなことを言えば(論理的・理論的にでたらめであったとしても)もてはやされる風潮が一部にあるのは残念だが事実である。いわゆる「車輪の再発明」的な研究が、局所的には評価されることもあるのである。寺田も上の文章を次の様に締めくくっている。

 

ただ一つ児童に誤解を起させてはならぬ事がある。それは新しい研究という事はいくらも出来るが、しかしそれをするには現在の知識の終点を究めた後でなければ、手が出せないという事をよく呑み込まさないと、従来の知識を無視して無闇むやみ突飛とっぴな事を考えるような傾向を生ずる恐れがある。この種の人は正式の教育を受けない独創的気分の勝った人に往々見受ける事で甚だ惜しむべき事である。」